靖国参拝に関する個人的な立場

一国民(有権者)として,(公式)参拝を合憲と解し,当然に容認(≠推進)する(法律論) —おそらく多くの参拝賛成派・推進派よりも,細い橋を渡ろうとする立場である*1
同じく一国民として,(法は度外視した)政治的な賛否については「白紙」である.別の言い方をすると,他の有権者の判断に任せる(その程度の弱い関心しかない).
他方,仮に自分が内閣総理大臣であった場合にどうするか.これはまた少し事情が異なる.

  • 大前提として私は無神論・無信仰であり,加えて,前述のように合憲の立場を採っている.
  • また,戦争は唾棄すべきものであり,ましてや望まぬ戦争で命を落とした過去の人々は(その国籍を問わず)悼まれるべきであると考える.
  • 一方,前述のように無神論・無信仰であり —さらに言えば魂や死者の念などの超自然的な存在を信じない— ,その悼み方(追悼方法)については,全く拘りがない*2


さて,仮に内閣総理大臣になった場合…
国民の代表者(議員),行政府の長として,その追悼の気持ちを国民または内外の人々に対して表現すべきか.すべきだと考える.他方,その追悼の意を,どのように表現するかについて,例えば,単なる一有権者の立場の時(今)と同様に単に内心でその思いを噛みしめるのか,それとも全国戦没者追悼式典,千鳥ヶ淵,原爆慰霊碑,様々な時と場を借りてそれを内外に表明するのか.前者は私人として当然のこととして,後者は公人として行なうべきと考える.
以上をふまえて出てくるのが,表現方法の一態様としての靖国参拝の是非・可否である.
結論から言えば,国民(有権者)に参拝を望む声が強ければ公式に,公務として参拝する.公的参拝合憲論を採ることは再三書いているとおりだが,上記のような私の信条(無神論・無信仰)からは,私的参拝はそもそもする必要がない(付言すれば,一有権者としては全国戦没者追悼式典も千鳥ヶ淵も原爆慰霊碑も何らの精神的価値を持たない).したがって,参拝するとすれば,内閣総理大臣として公式に参拝する以外には意味がない.
問題は「国民(有権者)の参拝を望む声」の強弱であろう.世論調査を見れば,「参拝を望まない声」も大きい(と私は見る).しかし,私 —内閣総理大臣であるとしての私— にとって重要なのは,靖国に祀られている人の遺族の声である.死者の追悼は,私の見解・感覚では生者の為の行為であり,ここでいう生者は多くの場合,その大部分は死者の遺族である.
ここで,国民の代表として,非遺族の参拝反対の声と,遺族の参拝を願う声の大小を,例えば「過半数」のように定量的に比較することは不可能であると考える.したがって,それぞれの声を世論調査や要望書・陳情書などを通して,または彼らの代表者たる議員の声と通して聞き,感覚的・直感的に判断するしかない.
少し付言しておくと,前述の「公式参拝合憲」の立場とも関係するが,例えば他国で他国の宗教・慣習で追悼されている戦死者に対して,機会があればその宗教・慣習に従って追悼するし,今後不幸にして国民に多数の戦死者が出て,かつ彼/彼女らが神道以外の方式で多数追悼される宗教施設があった場合,または無宗教の追悼施設が出来た場合,そこでも「公式」に追悼の意を表する.
さらに,日本国において現在,過去の大戦(など)の戦死者を,神道以外の方式で,又は神道方式で祀る靖国以外の宗教施設があるのならば(少なくても私は知らないが)—事後的に後付けのように造られたもの,特にその教義と相反する形式で死者を祀るモノ(例えば遺灰や遺体を死者の追悼の対象とする宗教がそれを欠いたまま施設を造って「ここで追悼しろ」と言い張るような場合)を除く—,そこでの追悼も靖国と同様の基準で考慮する.


以上,書いたように,靖国参拝に関して,「戦犯」の合祀の有無は全く考慮していない.
戦犯に関する個人的な立場は別に記したが,靖国(やその他宗教団体)が彼らを「有罪」と考えた上で,死によって彼らの罪が希釈・滅失したと考えようが,彼らを「無罪(無実)」と考えていようが,また靖国(やその他)がどのような史観・戦争観を持っていようが,以上の考えに何の影響もない.
進化論を否定し,人類をアダムとイヴの子孫と考えている宗教団体であっても,教義がジハードを含もうが,輸血を拒もうが,それが宗教団体,及び個人の信教・信仰の範囲内で行なわれている分には,それを尊重するのが「政教分離」である.


まあ,天地がひっくり返っても,地球が南から北に向かって回転しても,私が総理大臣になることはないが,少なくても,同様に考える議員(首相候補)がいれば,彼/彼女を—正確には,彼/彼女の靖国参拝に関する立場は—支持する.
(2005年10月20日)

*1:法的にどう構成して「合憲」を主張するかは個人的にはおおまかな筋道は立っているが,長くなるのでここでは割愛.なお,ネット上などで見られる,公式参拝合憲論は政教分離(と目的効果基準)を理解せず,公人たる人の信仰の自由に帰結されるモノが多く,賛同できない.

*2:日々,四六時中,戦争で命を落とした人々に思いを馳せているかと言われれば,正直そんな事はない.しかし,例えば戦争について語る時,例えば戦争についての本を読み,話を聞く時,例えば世界で起こる戦争を見た時,そして例えば終戦記念日などに戦争についての報道に触れた時,その思いの強さは時々で異なるが,機のあるごとに,戦死者を自分なりに悼んでいるつもりではある.