靖国「公式」参拝

靖国参拝賛成派(推進派?)と思われる方のつくった,諸外国の靖国(や第二次世界大戦)に関するリスト
昨日,偶々,別所でリンクされていた時にも思い,今日,finalvent氏の日記でもリンクされていて再度思ったのだが,あのリストは印象操作の感が否めない(リスト以外の内容については内容がありきたりそうなので,読んでない).

靖国参拝について語る時,「公式参拝」というのは,国家機関(たる内閣総理大臣)の参拝が国家機関としての行為か,はたまた(偶々国家機関の地位にある)個人の私的な行為かを語る文脈から出るもので,主に法律論的な意義しか持たないと思われる.
他方,finalvent氏がダイアリで言及している前原衆議院議員民主党党首)の発言や,その他参拝反対派の方々に見られる,A級戦犯合祀と参拝の関係(可否,是非,するか/しないか)は,法的な意義は乏しく,戦争責任や宗教観など個人的信条の文脈でこそ強調されるべきと思われる.
いずれについても「政治的意義」を省いたがこれは両者に共通すると考える.後者(A級戦犯)いついては言うまでもないであろうし*1,前者(公私の別)についても,—「私的参拝」を強調したと言われる—今回の小泉首相の参拝形態は,先日の大阪高裁判決(平成17年9月30日判決,「違憲」の方*2)のみならず,中韓への外交的影響をもふまえたものとされている.


加えて,A級戦犯を合祀している靖国への参拝と,そうではない(はず)伊勢神宮などへの参拝で,目的効果基準の適用に於て何らかの斟酌が加えられてもあながち的外れとは思えず,ある程度の法的意義もあるだろう.*3


話戻って,リンク先の話.「公式参拝」の「公式」の意味について考えた時,上記引用先が,各国の参拝の有無を「公式参拝」としてリスト化しているという点には,やはり印象操作の印象が拭えない.
上記リンク先は,別のページを資料としているようで,そのページを見てみると,国家機関の参拝(公式参拝)と言えるものは極めて少ない.
例えば,軍人は紫で色付けされているが,軍人のみが参拝している国についても「公式参拝」とされている(例えばマレーシア).これは,自衛官靖国参拝(やアーリントン墓地参り)する是非を語るのでなければ,殆ど意味はない.
もう1つ例えば,国家要人(≠国家機関)はオレンジで色付けされているが,ここにはナンチャラ大学ご一行様みたいのも含まれている.公平を期す為に付言しておくと,無論それだけではなく,元首や大使,元首相(おそらく参拝当時の肩書き,つまり退陣後の参拝と思われる)なども「要人」に含まれてはいる.
しかし,その多くは,日本国内に於て「公的」「私的」が問題となる立場(国家機関)ではなく,「公的参拝」と一括りにされるのには強い違和感を禁じえない.
例えば日本国の要人である国会議員の参拝については公的か否かはあまり問題とされないし*4
無論,件のリンク先は—ちゃんと読んでないが—(法律的意義の強い)公私の別について論じる資料としてリスト化しているのではなく,外交・政治を語っているのであろう.しかし,そうであれば,「公的」か否かはそもそも重要ではないのではないだろうか.そう感じるからこそ,「印象操作」との感が否めないのである.正確には(狭義には),外交・政治を語るついでに,公式参拝を法律論的に正当化しようとする意図を感じるということ.
広義でも,例えば日本国の—大使や天皇(≒元首)ならともかく—元首相(できれば議員も引退してると例えば話がスムーズ)や自衛官が,ナチス党員の墓に花を捧げたり,ネオナチ的集団で講演をした場合,欧州諸国で「日本・ナチス公式賛美」とでも書かれているような違和感がある.
念の為…前原氏もfinalvent氏も,別に法律論をしているわけではなく(前原氏は一応法律論にも触れているが),主に,外交・政治的側面から語っているので,別に件のリストを議論の素材とすることに—前原氏は素材としてないが…—異議があるわけではない.


最初に書いておくべきだったかもしれないが,靖国参拝に関する個人的な立場及び戦犯に関する個人的な立場はそれぞれ別稿に書いた.

蛇足(と言いつつ,実は本題)

ついでにちょっと書いておくと*5,先日の小泉氏の参拝で「大阪高裁判決(平成17年9月30日判決)を軽んじるものだ」との批判があるがこれは大間違い.彼が軽んじたのは,その前日に東京高裁で出された「合憲判決」の方である.
つまり,大阪高裁(H17-09-30,以下日付省略)は,彼のかつての参拝を「公的」なものとし,それを理由に憲法20条3項に違反すると説いたのであり,「私的」であっても「違憲」とは一言も言っていない.逆説的に言えば,「私的」であれば「合憲」ともとれる.無論,私的な場合にどうかは一切判示していないし,同じ構成の裁判官が「私的」な参拝をも「違憲」と判示する可能性は論理的には否定しえないが,「私的参拝」を「違憲」とする裁判例は1つもないし,おそらく学説,さらには茶飲み話のレベルでも皆無であろう.
他方,東京高裁(H17-09-29,以下日付省略)は,小泉氏のかつての参拝を「私的」なものとし,憲法判断をしなかった.大阪高裁判決を「違憲判決」「違憲判断」とする文脈では,この東京高裁判決は「合憲判決」「合憲判断」と言える(その他,公私の判断も憲法判断もしていない数多くの判決は「合憲判断/判決」とは言えない).
若干補足すると,原告側の訴えが小泉氏の参拝が公的なものであることを前提にその違法性(違憲性)を言うものであり,私的な参拝についての憲法適合性は問うていないので,私的と判断した以上,憲法判断をする必要がないのは自明である.
判決で言うと,以下の部分.

以上によれば,被控訴人小泉が平成13年8月13日に靖國神社に赴いて本件参拝を行った一連の行為は,これらを一体の行為としてみても,また,個別の行為としてみても,いずれも国家賠償法第1条第1項所定の「公権力の行使に当たる公務員が,その職務を行うについて」されたものには当たらないものというべきである。そうすると,本件参拝が内閣総理大臣の職務行為として行われたものであることを前提とし,これが憲法第20条第3項に違反するとする控訴人らの主張は,その前提を欠くものであり,控訴人らの請求は,その余の点について判断するまでもなく,理由がないといわざるを得ない。

原告団は私的参拝が20条3項に違反する旨を訴えていないし,被告(小泉氏)も私的参拝が20条1項の射程内にある旨の確認を求めていないので,判決としてはこれで終わり.しかし,当然に,私的な参拝は,信教の自由〔憲法20条1項〕によって保障されるものであり,私的靖国参拝は合憲であるとの判決になる.言い換えると「憲法判断」はしている.


で,何が言いたいかというと,

  1. 阪高裁は,かつての参拝—小泉氏の首相として初めての参拝—をその態様から「公的」と判示した
  2. 東京高裁は,かつての参拝—同上—をその態様から「私的」と判示した
  3. 小泉氏は,本年の参拝にあたり,その態様をより「私的」なものとした

どう考えても,小泉氏は,大阪高裁判決に敬意を払っている.
東京高裁の判事諸氏は,—政治的意図があったにしろ,純粋に「法律と良心」に基づいて判示したにしろ—自分たちがせっかく「私的」と判示した態様を,より「私的」なものへと緩和されたのである.
いわば,自分たちの判断(=私的)は間違い(=公的)であったと,当の被告から言われたようなものではないだろうか.
同じ態様の参拝を,私的と判断した自分たちではなく,公的とした大阪高裁の判事の判断が重視されていると感じたのではないだろうか.
一方,大阪高裁の判事諸氏から見れば,自分たちが「公的」(意見)とした判断を受けて,被告はその言動を改めたのであり,今回の参拝が改めて提起された場合に,それを私的と見做すか,公的と見做すかは別として,自分たちの判断が一定の変化をもたらしたことで,十分に満足できるであろう.


というわけで,今回の参拝で軽んじられたのは,大阪高裁ではなく東京高裁の判決である.


ちなみに,「判事諸氏」としているが,裁判は一般に3人以上の合議制で行われ,「判決」は全員一致で出されるものであり,「傍論」であるかにかかわらず,判事全員の意見である.しばしば「傍論は裁判官の独り言」と二重三重に間違った批判・批評が見受けられるが,「傍論」の意味付けを軽くするにしろ「3人言」や「5人言」である.(真に「独り言」と言えるのは最高裁判決の「少数意見」「意見」「補足意見」「反対意見」のようなものくらい.それらを軽んじられるかどうかは別として)

おまけ

この手の訴訟は「濫訴」と紙一重であり,個人的な感想としては「濫訴」以外の何物でもないと思う*6.この点について小泉氏も(若干私の考えとは違うが)主張しており,裁判所が判示している.
小泉氏の主張は「参拝は信教の自由〔憲法20条1項〕の実現行為であり,訴訟提起という圧力により小泉氏の人権を制限するもので,訴権の濫用である」といった感じ.

人権*7の行使*8が一切不法行為になり得ないとはいえない上,本件全証拠*9によっても,原告らにおいて,本件訴訟を提起することにより被告小泉に対し不当な圧力ないし損害を被らせるなどの違法な目的を有していると認めることはできないから,本件訴訟提起をもって直ちに訴権の濫用であるとはいえない。

原判決の「事実及び理由」欄中の「第3 争点に対する判断」の1(原判決29頁25行目から同30頁11行目まで)に記載するとおりであるから,これを引用する(ただし,原判決30頁6行目の「人権の行使が一切不法行為になり得ないとはいえない上,」を削除する。)。

「引用」を原判決と置き換えると,

本件全証拠によっても,原告らにおいて,本件訴訟を提起することにより被告小泉に対し不当な圧力ないし損害を被らせるなどの違法な目的を有していると認めることはできないから,本件訴訟提起をもって直ちに訴権の濫用であるとはいえない。

人権の行使が一切不法行為になり得ないとはいえない上の削除は,積極的意味はない(と解せると思われる).

  • 人権の行使であるので不法行為にあたらない(当然に濫訴である)
  • 訴訟の提起により小泉氏に不当な圧力・損害を加える(違法な)目的があり,濫訴である

小泉氏の主張をこのように2点に分けて解した場合,人権の行使が一切不法行為になり得ないとはいえない上は必要となる.
しかし「人権の行使であるので不法行為にあたらない」とまでは(単独では)主張されず,「人権の行使の実現行為に不当な圧力…」と接続されているので,千葉地裁が何を思って削除された文言を入れたのか,その意図は分からないが,東京高裁の判決で必要十分である.
一応,考えられる千葉高裁が被削除文言を入れた理由.

  • 2点を別々の主張と解した
  • 阪高裁の「傍論」のように,人権の行使が一切不法行為になり得ない点を強調したくて,敢えて付言した


ということで,裁判官の政治的な信条・心情はともかく,法的には「濫訴」ではないとの結論.前述(脚注参照)のように,私もこの結論に賛同.
ただし,小泉氏側が本気で証拠収集し,濫訴の主張を強硬に主張した場合,本件全証拠*10の内容が変り,「濫訴」が肯定される余地がないわけではない(少なくても論理的には).

あとがき

勢いで書いたが,昼休みに書く内容じゃなかった…
後で読みなおしたらボロボロかも.

*1:少なくても戦争当事国である中韓の主観では

*2:先日書いたが,同じく大阪高裁は,同じく小泉首相の参拝について,別訴にて憲法判断を示さない判決も出している

*3:ネットでしばしば(時に小泉氏ですら)「伊勢神宮はよくて,なぜ靖国はだめなのか」との言をみかけるが,これはやや筋違い.少なくても,九州地裁・大阪高裁の「違憲判決」に対する批判としては甚だ的外れ.九州地裁も大阪高裁も,さらに小泉氏の靖国参拝を原因とする訴訟が提起された他の裁判所も,伊勢参拝については何らの判断も求められていないのであって,仮に裁判官諸氏が伊勢参拝についても靖国と同様に「違憲」と考えるとしても,それを表明することは,(「傍論」においてすら)不可能である.別の言い方をすれば,伊勢公式参拝を合憲とした判決は一つもないし,仮に提訴された場合(そして「法益侵害なし」の一言ですませず,公私の別,合憲性について判断した場合),合憲とされる保障は何一つない.無論,靖国のみを問題視=提訴して,伊勢参拝を不問にする原告団の恣意・政治的意図に対する批判としては(当否・賛否は別として)十分ではあるが,裁判・法律に対する文脈では何の意義もない.(小泉氏は大阪高裁判決について聞かれた記者会見で前記発言をしているし,ネットでも裁判に関する文脈で前記発言が散見される)

*4:知事の参拝についても議員の参拝についても公私の別を尋ねる質問が一部メディアでは報道されるが(知事・議員によって軽くあしらわれているが),彼らの参拝の政治的な意義についてはともかく,法的な意義については問題とされていないはずで,前述のように「公私」の別は専ら法的な文脈で問題とされる.別の言い方をすれば,政治的な文脈では,公私の別はあまり問題とされない.

*5:本当は,参拝当日/翌日に書こうと思った内容.実際に書かなかった(アップしなかった)のには特に理由がないが,ついでなのでアップしておく

*6:仮に私が裁判官だった場合に,被告の「濫訴」主張を認容するかと言えば,話は別.原告,メディア,その他が一連の訴訟の結果(の一部=「違憲判決」)を政治的手段として利用するように,—法廷ではなく—政治・言論の場では「濫訴」との主張を利用したいに過ぎない

*7:引用者注:信教の自由

*8:引用者注:信教の自由の実現行為=参拝

*9:原告(控訴人)の提訴が不当な圧力ないし損害を被らせる目的を持っているという点について,小泉氏側は一切の証拠提出を行っていない(正確には一切の証拠が採用されていない).

*10:前注のように,実際は「証拠なし」