別の話(たぶん今日の本題)

内閣改造想定した執行」 死刑廃止議連が抗議

大阪拘置所で北川晋死刑囚(58)の死刑が執行されたのを受け、死刑廃止を推進する議員連盟亀井静香会長)は16日、「内閣改造(による法相交代)を想定し、死刑を執行しない法相をつくらないとする法務省の意向を反映させた執行だ」とする抗議文を法務省に提出した。
抗議文は「死刑のない社会を実現している国が3分の2を占めるようになっており、日本が執行を続けているのは暴挙と言うほかない」と指摘。死刑の執行停止や情報公開、死刑囚処遇の抜本的改善などを要望している。
抗議文は議連メンバーの福島瑞穂社民党党首らが持参し、法務省の大林宏刑事局長が対応。大林局長は南野知恵子法相の意向として「法律に規定があるので、行政としては、執行せざるを得ない」と説明したという。

第1感

風物詩.
先日の「郵政解散」の瞬間に思ったのは,「あれ?南野法相ってもう執行してたっけ?」だし,内閣改造を控えて,予想どおりの執行,予想通りの反発.


毎度思うが,死刑それ自体の是非と,その執行時機(刑訴法の運用,行政の裁量)の問題は別.
廃止派が,運用法について文句を言ったところで説得力はないし,逆に存置派が刑訴法どおりの6ヶ月以内の執行〔刑訴法475条2項〕を求めたり,安易な再審の不受理を訴えてもあまり有力ではない.
逆に例えば,「廃止派だが,存置する以上は6ヶ月以内に執行すべし」は格別,「存置派だが,議論が不十分であり保留すべき」とか「存置派だが,恣意的な運用(執行)は不公平なので,一律の運用基準を設けるべき*1」などであれば「エラい!」と思ってしまうが.


現状の刑訴法(死刑執行時機)の運用は,存置派も廃止派も不満があるが,執行の法的根拠はある一方で,執行しない「法的根拠」はないんだから,無策に声を荒げるのでなく,具体的活動をすれば?と,一時期,廃止派だった身としては思ったり*2(現在は,後述のように存置派).


内閣改造想定した執行が目に入った瞬間は「アムネスティあたりの市民グループの声明?」と思ったので,NewsNoNewsで見出しをクリックしてから,記事が開くまでに思ったのは,以上.

追加の雑感

見出し(と本文)をちゃんと読んで,死刑廃止議連の声明と分かり…


議連(議員)であれば,そして本気で死刑廃止を訴え,かつそれが国民の支持を得ている,国民の声の代弁*3だと思うのであれば,風物詩に定型コメントを返すような形式的活動でなく,さっさと刑法の—または刑訴法の—改正案を立案・提示すべき.
死刑廃止について,幾つかの根拠には説得力を感じるが*4,なし崩し的な執行停止では何の解決にもならず,憲法9条と同様,将来に遺恨を残す,問題の先送りに過ぎない.


公平を期す為に付言しておくと,私の現在のスタンスは「死刑存置*5.ただし,例えば適正な訴訟手続きの保障は当然,死刑に相当する罪についての再考察は十分に容認できるし,何が何でも現行基準—法条的な意味でも,実質的な裁判基準の意味でも—に拘るわけでもない.最高刑としての死刑を全て否定するには,存置根拠も有力であるし*6,一方で無為に存続させるには,世間の死刑存置意思はいささか軽率に過ぎる印象もある.

おまけ

福島瑞穂氏は,抗議文を議連の代表として持参しただけで,抗議文は議連によって書かれたモノだとは分かってるんですが…
死刑のない社会を実現している国が3分の2を占めるようになっており、日本が執行を続けているのは暴挙と言うほかないなんてことを言うと,「軍隊のあり戦争のできる国が3分の2どころじゃない数を占めており,日本が戦力不保持・戦争放棄(あまつさえ自衛権の放棄)を続けているのは<暴挙>と言うほかない」なんて返されるとどうするのでしょう.右の敵(死刑)を蹴る為に揚げた足を,左の敵(9条改憲派)に取られる感じ.
何が言いたいかというと,ようは,論理の一貫性がなく,結論(主張)の為に,都合のいい数字・事情・情報をその都度持ってくるから,ある結論を否定したのと同じロジックで自己の別の主張が否定されるという矛盾が生じてしまう.
市井の議論,喫茶店での茶飲み話ならそれでいいですが,政治家(や論壇・メディアの方々)は,理念・思想を根拠に何かを主張するのであれば数字や外部事情に頼らず専ら観念的な話を,数字や外部事情に依って何かを主張するのであれば理念・思想を捨てる覚悟が必要.
もちろん前者の場合は「議論」にはなりませんが—単なる思想・感情のぶつけあいに過ぎない—,政治や社会,民主主義の本質なんてそんなものじゃないですか?
後者の場合,勝れたアルゴリズムで社会運営できてしまう非人間的な社会になりますが—ひたすら,国際情勢におもねる「右へ倣え」国家というアルゴリズムなら,他国が人治を続けるかぎり,間接的に「人間性」を享受できる—,一人ひとりが感情を持っていればそれで十分と割り切って,政治・制度と生活・日常を切り離してしまうのも,1つの選択肢ではあります.
ま,現実問題,0か100かではないですが,せめて,1秒で揚げ足取られるような陳腐な理屈を使うくらいなら,感情論の方がまし…という結論.

*1:1法相最低1執行は執行する側=法相にとっては「公平」であるが,死刑囚にとっては著しく不公平である.

*2:色々とやってるのは知ってるが,それが効果を出していないことが問題.オリンピックじゃないんだから(オレ的にはオリンピックも)「参加(行動)すること」にそれ程の意義はない.何かをする時に重要なのは,行動の目的と効果を考え,できるだけ効果の大きい行動をすること,そして小さくてもいいから効果を出すこと.署名が集まらないなら,なぜ集まらないかを考え,増やす工夫を,いくら署名が集まっても(立法・行政・司法府に対して)効果がないなら,効果を出す工夫—例えば一種の圧力団体・政治団体として活動し,集票組織となるとか(当然,署名が集まる=支持者が多いことが前提)—をすべき.

*3:尚,内閣府による最新の世論調査(2004年12月,有効回答2,048人)によれば,どんな場合でも死刑は廃止すべきであるが6.0%,わからない・一概に言えないが12.5%,場合によっては死刑もやむを得ないが81.4%となっている.積極・消極の区別のない「存置派」の割合81.4%は過去最高であるが,一方で—一目で分かるように—「できるだけ廃止/停止すべき」や「絶対に廃止すべきでない」などの選択肢がなく,議論の土台とするにはやや公平性・正確性に欠けると思われる(次に挙げる結果はこの点をやや補う).消極・積極の区別のない「存置派」(全体の81.4%)のうち31.8%は状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよいと答えているが,これは前回調査(37.8%)よりも減っている).また,「存置派」に対する存置理由についての設問(複数回答)では,凶悪な犯罪は命をもって償うべきという応報論が54.7%,凶悪な犯罪が増えるという抑止力論が53.3%,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらないが50.7%,生かしておくと,また同じような犯罪を犯す危険があるが45.0%などとなっている

*4:同時に存置派の主張にも有力なモノはある

*5:転向・変節の理由は,1つは年少時に周囲の影響を受けた観念的な廃止派でしかなかったこと,加えて終身刑でも生ぬるいとしか思えない凶悪事犯の実感,さらに現状の司法では(少なくても死刑相当の重大事犯に関して)「冤罪」の可能性が小さいと思えること

*6:刑罰は,目的刑教育刑としての側面を当然に重視すべきであるが,同時に,一定の抑止力は否定しえず,社会・被害者の「感情」にも配慮し,応報刑としての側面を完全無視すべきではない,と考える